悪貨は田中を駆逐する

ギターボーカルのタナカサトです

田中以外田中じゃないの

 前述のとおり、不倫はエンターテイメントです。知人の不倫バレで、酒が240杯のめます。
 しかしながら、加熱する不倫報道、にかんしましては、いささかおもうところがございます。

 まずもって、もはやだれが不倫をしていないのかよくわかりません。
 もはや人類は、ある人物が不倫していない、ということを特に報道する、という段階まで成熟したのではないのでしょうか。

 そもそも不倫報道の目的とは、なんであったしょうか。
 不道徳であるところの不倫を報道の立場から糾弾し、ただすことでしょうか。違うだろ?
 これは、有名人が公衆の面前で謝罪をしいられたり、弁明におわれたりする姿をコンテンツ化するためのものです。

 ほんとうに、このように断じられましょうか。邪推というものではないでしょうか。
 やはり、そうではありません。報道の方々は私の見解にたいして、反論をできる立場にないようにおもわれます。

 その理由として、まずひとつ。彼らは有名人の不倫を証すため、平然と暴力的な不道徳におよぶからです。

 つまり、盗撮写真や、メッセージアプリでの個人的なやりとりの本人たちへの無許可での公開に一切の躊躇がありません。
 こうしたことは、まずもって無粋であり、また不義理であり、ときに明確に違法ですらあります。

 もうひとつ。当の不倫行為がおよぼす社会的な影響が、本来であればきわめて限定的であるという点もあげられます。
 つまり、マスメディアが報じさえしなければ、ほとんどの場合、当事者以外の人間にはなんのかかわりもないことなのです。
 これが、有名人が不倫をするたびに放射性物質が飛散するというような事情があった場合、話はまったくことなります。このような場合は、連日一面で報じられなければならないでしょう。
 行為の内容により飛散量や物質がことなるというようなことがあれば、「川ベ不倫事故、炉心またもシックスナインか プルトニウム69検出」「今井不倫 住民の眠れぬ夜 未明にかけて体位変更4回、16自治体で避難指示」などとかきたてる必要があります。国民の生命にかかわる。
 ご安心ください。こういったことは不倫ではいっさい、生じえません。
 メディアは核施設をこそ監視し、報じるべきなのです。シックスナインなど、どうでもよろしい。  

 リンチをおこなう。それをコンテンツ化し、利益をえる。その構造が、厳然とあります。そうしたことが、まかりとおっています。
 彼らに対抗する方法はないのでしょうか。

 不倫を当然のものとし、不倫報道をうけながす以外にありません。
 文春を、新潮を、ワイドショーを、さんざめく数多のネットメディアを。いまこそ私たちは敢然と、無視するべきなのです。

 さて。たいくつな良識派アピはここまでです。
 告知をひかえている以上、多少はいいひとぶっておかないといけなかったのですが、感情がまったくこもっていないため、字数がたりませんでした。
 ちなみに、タグ等ふくめて2000字前後というのが、当ブログ1エントリーぶんの目安です。

 ここからはいつもどおり、本音をつづらせていただきます。

 とはもうせ、冒頭にひとつのべたことについては、心からのことばです。
 くりかえしまと、もはやだれが不倫をしていないのかよくわかりません。
どうしてこのようなことになってしまったのでしょうか。

 それはもう、不倫を報じすぎであるからにきまっています。

 私のみならず。有名人の不倫にはだれもおどろいていません。
 それどころか、有名人が不倫するのは、ごく自然なことのようにおもわれます。
 もはや、おもしろくもなんともないのです。
 当事者たちを混乱におとしいれ、消耗させ、人間関係を破壊し、または活動自粛などにおいこみ、損害を生じせしめる。一方で、消費者であるところの大衆には食傷され、うとまれすらしている。
 いったいこれはなんのため、だれのための報道なのでしょうか。

 もちろん、報道の方々の収益、究極的には生活のためではありましょう。つまりは不倫ネタ、惰性でもってきておられるのです。
 あまり私たちをなめていただいてはこまります。

 イヌが骨をくわえてくる。頭をなでてやる。
 毎度毎度、おなじ骨をくわえてくる。頭をなでろと尾をふる、ほえたてる。
 この駄犬、とののしりたくなるのも当然のことです。法がゆるせば、けとばしているところでしょう。

 もう有名人の不倫には、あきました。コンテンツ力ゼロです。
 かくなるうえは、普通の不倫にかんしては、いっさい報道しないでいただきたい。
 これからは、不倫の常識にてらしても首をかしげざるをえないような異常な不倫のみを、紙面に配してください。
 イヌ8匹と同時並行で不倫ですとか、配偶者の曾祖母と不倫ですとか、高レベル案件のみでおねがいいたします。  

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 焼きプリンたべたい。

北田中洋条約機構

 親の心子しらず。俺の息子負けしらず、ともうします。中折れそのものは問題ではない、その後の復旧作業をどれだけ迅速におこなえるかだ。

 だいじにしてますか、親。
 私は、していません。

 父の日と母の日は、それぞれいつであったでしょうか。
 仮にきょう、7月10日が父の日であるとして、話をすすめさせていただきます。正確なところは、ぞんじあげないのです。

 7月10日といえば、カゲロウデイズです。カゲロウデイズであるとして、話をすすめささせていただきます。よくしらないのです。

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 8月15日でした。なんともうしますか、適当をいったのですが、奇しくも今日のようなのでした。
 今日といいますのは、すこしくもうしあげにくいのですが、執筆時点です。
 どれほど更新がおくれようと、あくまで投稿日に執筆している、という体でここまできたのですが、さすがに一ヶ月以上はなされており、少々無理もかんじていたところです。
 ところでこの曲、ボーカルへのVOCALOIDの起用に音楽的な必然性が感じられることがあり、たいへんきにいっています。ギタープレイも鮮烈です。
 アレンジ的なよさを横においても、ある時代のキッズの精神性をよくひきうけたロックとして、ことあるごとにききかえしています。名曲です。

 このようなきびしいメロディでこそ、VOCALOIDはかがやきます。
 無理に人間のボーカルにちかづけないストレートな調声も、VOCALOIDから「鳴り」をひきだしています。
 ごくふつうに仕上げられたポップスをVOCALOIDにうたわせるのは、VOCALOIDニコニコ動画のくみあわせにより生じるSNS的な機能を理解しつつ、また、しているからこそ、あえてもうしあげれば、あまり音楽的であるようにはかんじられません。
 そのような楽曲にかんしては当然に、「歌ってみた」バージョンのほうがよい、ということになってしまいましょう。カニスキになんの工夫もなくカニカマを入れてだされれば、ほんもののカニを出せ、となるのは不自然なことにはおもわれません。
 歌い手さんのリスナーはそれでもよいかもしれません。しかし、それではオリジナルはなんであったのでしょうか。私たちはVOCALOIDを、かませ犬としてはしらせるのでしょうか。違うだろ?
 VOCALOIDには、VOCALOIDこそがかがやくステージがあるのです。

 この議論は、いまさらであったでしょうか。いや、いまだからこそ、ぜひともこの話をしておきたいのです。
 私としても、今後VOCALOIDで、あるいはVOCALOIDにとってかわる次世代のヴォーカルシンセサイザーをもちいて、楽曲を制作しないともかぎりません。
 その折はカゲロウデイズのように、電子の声帯をならしきりたいものです。

 なんの話であったでしょうか。
 7月10日。
 この日は、納豆の日としてしられています。

 ハア、納豆。納豆を400回かきまわすたび、おもわれるのはあの日のことです。

 私が、コンビニエンスストアのイートインで、おくらととろろのネバトロサラダにかけるための納豆と温玉の混合物をかきまわしていたとき、やめましょうか、この話。
 ようするに、しらない女性から突然「おともだちになりませんか」と声をかけられて無理なのでにげ、にげたにもかかわらず後日も声をかけられてLINE IDとメールアドレスがかかれた付箋をわたされ、うけとらされたもののその場にすててにげる、といったことがありました。
 今年にはいってからのことです。

 これだけははっきりともうしあげておきます。
 ひとりで納豆をかきまわしている男に突然声をかける人間とは、未来永劫おともだちにはなれません。
 「あ、お食事中ですよね、じゃあ、お食事いっしょにいいですか?」などととわれましたが、暴挙です。ゆるされようはずがありません。万死に値します。
 しらない男としらない女、カウンターで肩をならべて、納豆をたべながら話に花をさかせられるとおもっているのでしょうか。ひとりにしてください。

 私の父は、納豆がきらいでした。
 もしかすると父も、若い時分にこのような目にあったのかもしれません。

 父さん、つぎのやすみにかえります。

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普通の女の田中にもどりたい

 ダイヤモンドは永遠のかがやき。アイドルは一瞬のかがやきです。
 私たちはかがやくためにうまれてきました。

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 ブログの更新を急ピッチではじめたことには、理由があるのです。
 なにも目のおおきい人間に脅迫されたからというわけではありません。私は圧力には屈しません。

 告知。告知があるのです。
 おもえばそれこそが、このブログを開設した目的のひとつでもありました。

 さりながら、告知のみをたれながすブログには、絶対にしたくありません。
 ブログは立て看板ではないのです。

 ブログは、インターネットという双眼鏡のむこうになりたつ、ひとつの街です。
 街並みにはさまざまなものがありましょう。
 駅前には熱烈中華食堂があり、川には橋がかかり、近所では今朝も頭の正常な人間同士が奇声を発しながら全力で闘争しています。
 とおりには犬が死に、猫がいきたえ。さんざめく命のながれのなかで、しかし、おだやかにときがながれていきます。
 股間には東京スカイツリーがそびえたっており、大量のアルコール飲料メリロートを同時に摂取した結果、トイレ以外の場所で、中川放水路になったこともあります。
 そうした街という生態系全体が、当ブログなのです。
 精神活動におびえたり、動物をとむらったり、自室の前の廊下で失禁したりすることをおこたって、立て看板だけをすえにもどってくるわけにはまいりません。

 さて、当の告知なのですが、まだ詳細をあきらかにするわけにはまいりません。現在主催側と日程をつめている段階です。
 たちぎえ、ということもありえないとはいいきれません。いましばらくおまちいただきたい。
 しかしながら、なんとしてもこの話まとめあげ、みなさんの前で颯爽とあらわれ、なにかしらご披露せねばならない。場合によっては主催側とさしちがえてでも、私たちの出番をねじこまねばならない。私としては、そういった覚悟でいます。そういった覚悟で、メンバーに考証をまかせています。

 アイドルには、時間がないのです。

 まわりの同世代の人間たちが次々にアイドルを卒業し、結婚しています。心からどうでもいいしご結婚でもご出産でもご自由にしていただきたいのですが、耳をふさいでいても情報はつぎつぎとはいってきます。

 結婚。それほどめでたいことでしょうか。
 だれかとだれかの結婚。そのようなしらせがとどいた折には、うわあっという生理的な拒否反応と、おもしろいからはやく離婚しろという期待で胸がいっぱいになります。
 期待にそったはたらきをみせてくれるご夫婦もちらほらとあらわれているので、一概に結婚がどうでもいいとはいいきれません。
 知人どうしの離婚は最高のコンテンツです。

 結婚、というのは、男女関係が法的に保護され、あるいはある種の義務が生じ、または、親類縁者ぐるみのつきあいが生じる、というだけのことです。
 これは周囲からみて、たいしておもしろい話とはいえません。
 いってみれば、裏の空き地に家がたつ、といったこととおなじです。家主は新居にめくるめくおもいをはせていましょうが、ご近所さんは往々にして工事がうるさい、という感想しかもちえません。
 家の設計者がガウディや楳図かずお先生ならば別ですが、知人というのは99.9%が凡人ですから、たいてい見栄えのしない凡庸な家がたつのです。

 これが離婚となると、断然話はちがってきます。

 まずもって不倫が露見するなどの、それ自体エキサイティングなアクシデントが発端となります。この時点で脳内にアドレナリンが横溢します。
 あいしあって調子にのって挙式などにおよび、こちらとしてはみせられたくもない絆をさんざんみせびらかしたはずのふたりの間に唐突に致命的な亀裂がはいり、金銭の問題が発生し、ときに法的闘争にまで発展します。
 動か静か、でいえばつまり離婚は、動。そこにはドラマがあり、活気があり、クリエイティビティがあります。

 政府は離婚をこそ推奨するべきです。あるいは離婚を前提とした軽率な結婚を奨励すべきです。かんがえるまでもなく、このほうが少子化対策になります。
 となれば、離婚で私たちをたのしませてくれたふたりについては、当然たたえられなければなりません。ありがとう文春!
 税制上の優遇措置は無論、なされるべきでしょう。あとは都バスに無料でのせたり、毎月入浴剤などのちょっとしたものをとどけたり、できるかぎりのことをしていかなければなりません。
 一度や二度の離婚も経験していない人間は、信用ならない。これからはマスメディアなどをとおして、そういった価値観を共有していかなければなりません。

 私を結婚式によばなかったうらみは一生わすれない。

日本のいちばん長い田中

 例の特定の中華、はじめてしまったんですね。
 そうなんですね。

 はじまりがあるものには、かならずおわりがあります。
 人の手によりはじめられたものは、人の手でかならず、おわらせることができます。
 戦後72年。

 浅学ながら、たとえば全冷中の活動などについても、ぞんじあげてはおります。
 あれが、つまり、例の特定の中華がおわされている、文化史的な意味あい、それへの認識、あるいは先人の偉大な業績への敬意、それらをもちあわせつつも、あえてここでもう一度、みなさんにといかけたいのです。

 例の特定の中華とは、つまり、いわゆる冷やし中華とは、何であったでしょうか。私はおこっています。

 初恋は、あまずっぱかったでしょうか。
 もしあまずっぱかったということがあるとすれば、それはあなたの初恋がたいした恋ではなかったからにほかなりません。
 私の恋は、最初から最後まで激辛。額に汗せずに、人の魂などもとめられましょうか。
 しかし、無理もないことです。凡庸な人間には、初陣から大玉をうちあげる恋の才覚などあろうはずもないのです。
 以後、恋愛のことはなんでも私に相談しなさい。

 なんの話であったでしょうか。

 あまずっぱい。これは信用できません。信用ならないのです。
 あまずっぱい。そのスウィートでフレッシュなイメージは、大手広告代理店のデマゴーグにほかなりません。すべては陰謀なのです。

 おねがいですから、みなさんすこし冷静になってください。

 あまく、かつ、すっぱいのです。きっついとはおもわれませんか。
 最悪、わるくなっているということもかんがえられる味です。つまりは、食品衛生上のリスクがそこにある。

 これが、酸辣スーラーであれば、話はべつなのです。大歓迎なのです。日中国交正常化は、田中角栄の偉大な業績です。
 なぜあまずっぱさは排除され、酸辣スーラーはゆるされるのか。そこに差別が存在するのか。これについての考察をはじめると、この話がまとまらなくなるおそれがあるので、ここでははぶきます。
 今はなんでもいいから筆をすすめることが肝要です。つまり、ブログを更新するよう外圧をかけられているのです。
 スーラータソは特別。それに納得できない向きはサン・ペドロ・スーラにでもまいられたがよろしい。

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 ファーストキスは、冷やし中華の味だったでしょうか。
 およそファーストキスの味として、例の特定の中華のそれはうけいれられるものではありません。最も強い言葉で非難されなければなりません。
 唇のつめたい女は、心にムスダンリをもつといいます。

 せめをおうべきは、タレのみにはとどまりません。具材の罪もはかりしれないものがあるのです。
 つまり、錦糸卵の恩着せがましさ。紅しょうがの毒々しさ。ハムのどうでもよさ。チャーシューのかたさ。キュウリのモブ感。プチトマトの申し訳程度感。そして全体を支配する、切り方のまずしさ。

 このようなものを、つまり例の特定の中華を臆面もなくはじめましたと公言して、はばからない。
 資本主義の歪みここにきわまれり。ご先祖様が泣いています。

 日本を、取り戻す。
 今こそ例の特定の中華をおわらせ、我々の手に夏をとりかえすときなのです。領土問題は、存在しない。

 でもまあ、たまに食うとうまいよね、冷や中。

恋の田中伝説

 そこにすわんなさい。だいじな話がある。
 あのなあ、ハルヒはよんだか。

 子をもうける。
 つまりそれは、うまれてくる子にたいして応分の責任をおう、ということ(とされているらしいの)で、私にそれができるか否か、はなはだうたがわしい部分はあります。
 部分ともうしますか、全体は、あります。全身が疑義にみちている。

 しかし、この宇宙に有機生命体(もうちょっとハルヒっぽくなってる)として生をうけた、その奇跡のおもさをかんがみれば、この生命、つかいきりたい。
 正室側室あわせて9男18女をなしたい。
 そのような志、なきにしもあらずです。ガイアが俺にもっと輝けと囁いている。
   もっとも、私が次世代にかたりつぎたいことといえば、佐々木(涼宮ハルヒシリーズの登場人物)の映像化の夢を託すことだけです。
 おりしも、戦後72年。
 一度きりのオナニーイヤーです。平和とは、非戦とは、なんであったでしょうか。
 戦争をしらない子どもたちに、9条の心と、涼宮ハルヒのまだアニメになっていない部分とを、語りついでいかなければならないのです。
 そう、七夕のこの日に。

 最近、アニメというものをとんとみておりません。
 もっぱら、大河ドラマです。独眼竜正宗を走破し、八代将軍吉宗にとりかかっています。ジェームス三木作品です。
   ジェームス三木先生は、当時のご婦人に暴露本を出版されるという憂き目にあわれました。
 タイトルが一般名詞化してしまったほど、当の書籍は当時話題になったそうです。たしかに私も、「仮面夫婦」というそのことばだけはぞんじあげています。
 真偽のほどはさだかではありませんが、男の私からみても内容がえぐすぎますし、女性からのバッシングはまぬがれえなかったでしょう。

 江戸のかたきを長崎でうつ、ともうしましょうか。晒しのかたきを江戸時代でうつ、ともうしましょうか。
 暴露本の数年後に放映されたこの八代将軍吉宗に、三木先生は封建社会だから恥ずかしくないもんとばかりに、徹底的にお手つきネタ、側室ネタをもりこみました。
 特に、亡き名優大滝秀治さんが演じる徳川光貞公のすさまじい性豪っぷりは必見です。

 大河ドラマなれば、放映局はむろんのことわれらが公共放送です。受信料だからできることがたくさんあります。
 2017年におなじことをすれば、まちがいなくはてなが焦土と化していたでしょう。リテラシーが発達した現在、表現の自由はつねに、炎につつまれています。
 つまりほんの20年前まで、原始時代はそこにあったのです。

 Wikipedia記事をくりますと、この作品への出演を期に、山田邦子さんのバッシングがはじまった、とあります。それ以上にパイズリという語の考案者が山田邦子さんというパンチのきいた情報があり、以後AVのパイズリシーンをみるたびに山田邦子さんが ちらつくのろいがかかりましたが、それはこの際あきらめていただきたいのです。

 なぜ、お紋の方――浄円院を熱演した山田邦子さんがバッシングされねばならなかったのでしょう。
 Wikipedia曰く、「浄円院は農民の出という説もあるため、庶民的なタレントだった山田が選ばれたが、視聴者からは『違和感がある』という反応が多かったとされ、典型的なミスキャストと評する向きもある」との由。

 たしかに、山田邦子さんの演技には、他の出演者とは一線を画す独自性をもちあわせていました。
 しかしこれを、百姓でありながら殿様の子の生母として大名家にほうりこまれ、なかなか周囲にとけこむことができないお紋の方という存在の表現のあり方として、肯定的にみることはできないでしょうか。

 この種の表現。別のレイヤー、あるいは別の語法での演技。その齟齬によりときとして生じうる魅力。そういったものをいかんなく発揮していたのが、「風林火山」でした。
 武田晴信上杉景虎北条氏康。これらの名将たちが、それぞれ歌舞伎俳優、バンドマン、大衆演劇の役者、といったまったく別のバックボーンをもった演者たちによって熱演されました。
 
 今でいう都道府県のようなスケールでわけられたそれぞれの領域は、当時、「国」とよばれていました。
 国同士はときにむすびつつも、相争い、しのぎをけずっていました。
 この日本列島のうちに、ちいさな世界地図があったわけです。国がちがえば、人もちがいます。風林火山のキャスティングは、あるいは演者たちは、それを直截に表現していました。

 山田邦子さんの演ずる、際立った個性のお紋の方。
 これを個人的にたのしめないだけならまだしも、これをよってたかって批難するにおよぶは、おのれの感性の平板さを集団で披瀝する、いささかおろかしいこと。そのようにおもわれます。

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 いやもうパイズリのゴッドファーザーってだけでなにやってもゆるされるだろ。

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海辺の田中

 ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大なシシド・カフカに変っているのを発見した。
 私の毒虫がカフカにより巨大化するともうしますか。

 シシド・カフカとは、なんであったでしょうか。さんをつけろよデコ助野郎。

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 早苗さん……。

 シシドさんにかんしましては、これはもう端的にもうしまして、ドラムをたたきながらうたうモデルみたいなおねえさん、という印象でした。ひとつ死語でもってあらわしませば、これつまり小並感。
 その魅力については私としても、重々に承知しているつもりでした。

 なにも。なにもわかってなどいなかったのです。

 早苗さん……。

 最近では教ちゃんも早苗さん早苗さんとさわいでいます。無理からぬことです。
 もっともツイッターでトレンド入りしている早苗さんが僕のしっている早苗さんじゃない」というようなことをこぼしていたような気もします。
 しったことではないのです。
 ツイッターをみている時間があったらひよっ子みる。デレステやってる時間があったら澄子で高鳴るバイヤンする。それが国民の義務であり、9条の心なのです。平和の上にあぐらをかいてはいけません。かえせ北方四島
 みなさんも機会がありましたら、きょうちゃんにH-KVK シシド・カフカシグネチャースティックをおくりましょう。
 いつかかならず、私たちのまごころが教ちゃんのウラスジーミル・ポーチンにもつたわりましょう。ニジエ通信かよ。

 ところで私のマイスティックは、じつはすでにシシド・カフカシグネチャーなのですよ。うふふ。私の一匹の巨大な毒スティック。砂にかいた君のなまえ。
 ひとりH-KVKともうしますか。ぶってください。

 早苗さん……。

 みなさんにおかれましてはこんなきもちわるいものをよまされて、たいへんですね。難儀なことです。
 ざんねんながらかくほうはおもったより難儀ではないのです。
 かかない、あるいはかけない理由があるとすれば、ただもう多忙であるということがあげられるのでして、逆にもうしますと、こうして今シシド・カフカさんへの、早苗さんへの恋文をしたためられるということが奇跡のようです。この時間が、魔法のようです。

 恋とはどんなものかしら。
 私はいいました。恋は現し世にたいする己のあり方であると。
 高嶺の花に心をあずけるもよし。あの日あの時あの場所に魂をおいてくるもよし。
 しかし、理想を現実にもとめては断じてならないと。
 これはひとえに、おのがしあわせのためです。

 音楽は別なのです。別儀なのです。
 あれにかんしては、どこまでも夢をおってよいのです。いえ。おってしまうものなのです。
 どこかでその足をとめることができた人は、きっとそれなりの場所にたどりつけたのでしょう。そこにはしあわせがあったのだとおもいます。
 音をだしていると、己のことなどどうでもよくなってしまうのです。
 たとえわが身は地獄の底におちても、心とからだにどこまでもしたがう時間こそが、まさしく私にとっての音楽なのです。

 それはそれとして、いますぐにモテたいし、詞がかきあがらない。

 複数の課題があるようです。整理しましょう。
 いますぐにモテたい。ということにかんしましては、まずもってモテというものの定義について画然とさせねばなりません。
 つまり、ことによっては既にモテているのかもしれません。そうなればこの問題は解決済みということになります。
 しかるに、モテの定義、あるいは、再定義、ともうしますは、一日の分量以上の紙面をついやす、由々しき議論になろうかとかんじられます。
 これにかんしてはいさぎよく、後日にまわすといたしましょう。
   では、詞がかきあがらなかったのはなぜであったでしょうか。
 メロを毎回コロコロかえ、コロコロかえるというかもう、かんがえてきたネタを都度都度失念してアドリブでうたい、一念発起したかとおもえばサビのサイズごとかえてしまう、などの所業をくりかえしたからでしょうか。
 私は、そうではないとおもいます。
 そういった低俗な、作業効率に帰結できる話ではなかったようにおもわれます。
 なぜならば、そういった工程上の問題をかかえながらも、今の私には自在に詞をつづれるからです。

 恋がそのまま歌になる。

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田中マンスの神様

 冬本番。

 先日、冬将軍とカマクラをつくったお話などもいたしましたが、まだまだ冬を満喫しているとはとてももうせますまい。
 冬といえばなんといっても、恋。恋の季節なのです。
 ウィンタークンニ、はじめます。全部雪のせいだ。

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 幸せになれるものならば、友情より愛情。
 友達だとか、友達の彼女だとか、そういったことはこの際関係ない。
 男としてうまれたからには、やるときゃあやるのです。

 なのになぜかしらこのおもい。やるときがおとずれない。
 つまり、友だちと女の子をとりあったことが、いまのところ一度もないのです。
 女の子と女の子の友達が私をとりあったことはあります。あるいは、もともと友だちでなかった男の彼女であれば、とったことはあります。
 その節はたいへんおさわがせいたしました。全部雪のせいだ。
 しかし、私は、ひとりの女性をめぐって男の友情がこわれていく様。それを見たいのです。

 なぜ私は、友とオス同士メスをめぐるあらそいをおこさないのでしょうか。
 覇気にかくのでしょうか。やはり、環境ホルモンでしょうか。
 理由はたったひとつ。周囲の数すくない友達とすきな女の子のタイプが決定的にちがう、それにつきます。

 教ちゃんとはもう、おもしろいようにこのみがことなります。正反対です。
 彼はタレ目の巨乳をこよなくあいしています。
 私はツリ目の美脚に胸さわぐものをおぼえるので、いっさい競合するみこみがありません。
 巨乳部位にかんしましては、なんかこの、さわってみたい、ですとか、うずめてみたい、みたいな興味のおぼえかたでありまして、しかし、それはそれで切実でもあるのですが、なにかこの、私のものにしたい的なるこの、支配欲じみた感情にとらわれないともうしますか。

 ぶんちゃんとですが、外見以上に性格のタイプがまったくちがいます。
 彼はどちらかというと、あかるくて社交的な子との恋におちるようなのです。
 私はネット弁慶でリアルではくちかずがすくない陰キャのような女性にひかれるものがあります。そうした人物とは単純に気があうということでしょう。
 個人的に、あかるくて社交的な子にある種の人間であると判断されたうえでやさしくされるとみじめなきもちになるんだよな。

 三上さんとはわりと顔面タイプの話はあうきもするのですが、対象年齢をいちじるしくたがえているようなのです。
 すなわち私はこの、16までならばわかければわかいほどいいともうしますか、こういう記述が逮捕されたあとにニュースでよみあげられる。
 性的に成熟した年齢、すなわち、最低でも二十代、でないと、とうてい異性として意識できない、という意味のことを、三上さんはおっしゃるのですが、つまらない男といえるのではないでしょうか。ハードコアがそんなことでいいのか。

 私のしたう女性が、かれらにとられる。
 そのようなことがあったとき、永ちゃんの「親友」のように、かっこよくふるまえるでしょうか。
 うん、それ無理
 一発だけでもとりかえす、か、あらゆる手をつかって交際がうまくいかなくなるように仕向けた上で最終的にかすめとるといったことを、きわめて淡々と、確実におこなうでしょう。
 そのようなおのれの性を鑑みたときに、あらためておもうのです。
 友人たちと女のタイプがぜんぜんちがって、ほんとうにによかったと。

 砂糖鳥のリハがおわって、いつもの店によろうとしたら臨時休業であったため、このメンツではめずらしく、国産国消への挑戦をおこないました。
 連日の宴席で疲弊がつのっており、アルコールをてびかえるという三上さんでしたが、店内のやかましさに辟易していました。声のちいさいひとなのです。
 ジュリアナのアレを合唱する連中などもおり、最悪をしたまわるサウンドスケープではありました。

 天真爛漫な健康優良児のぶんちゃん、陰気なメンヘラオタクの私、といったものたちにくらべれば、三上さんがいちばん乙女で、恋愛脳であるようにもおもわれます。

 ハードコア乙女。

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