悪貨は田中を駆逐する

ギターボーカルのタナカサトです

物は壊れる、田中は死ぬ

 破壊。その蠱惑的なひびき。その魔性。一瞬のかがやき。

 錦織圭選手がラケットを破壊。この報道にふれて私の心はわきたちました。

 錦織、ラケット破壊。ラケットを、破壊。
 見出しにおどるその字面だけで、うっとりしてしまいます。
 ラケットを――破壊。

 スポーツにとんと疎いのです。
 恥をしのんでもうしますが、まったくぞんじあげませんでした。つまり、プロテニスの世界で選手がラケットにあたりちらし、結果としてそれへの破壊行為におよぶということは、さしてめずらしいことでもないということをです。
 私がテニスについてしっているいくつかのこと。それらまあ、おおくの場合人体にふたつずつあるそれが右ひだり、ひい、ふう、の、まずふたつで、かんがえてみればおよそそのふたつに終始するのですが、しかも今しらべたらちがうらしい。
 やはり彼女は無実でした。かえせ北方四島

 閑話休題
 とにかく選手のラケット破壊は、ありうべき事態として歴然と想定されている。プロ野球でいったら危険球からの小競り合いくらいのものでしょうか。
 そのことを踏まえてもなお、錦織選手らしくない、ですとか、日本のエースとしてふさわしくない、ですとか、種々の批判があいついでいるとの由。
 国民的スポーツ選手として彼がいかに愛され、したしまれているか。その証左でもありましょう。

 先ももうしましたように、私はテニスをしりません。テニスもまた、私をしることはないでしょう。
 しかし、およばずながら終生錦織選手の味方でいるつもりです。容姿がタイプだからです。

 今般の事案に係り、錦織選手を否定的である向きがおられるとすれば、いますこしここで冷静におかんがえいただきたい。

 錦織選手がテニスコートで自身のラケットを破壊する。
 それは、ごく自然なことではなかったでしょうか。

 たとえば錦織選手がコートにて仏像破壊などをおこなうことがあるとすれば、それはきわめて不自然で、不適切であるといえます。
 日本のエースとして、人として、あるまじきふるまい。どのようなもうしひらきがあれ、断じてゆるされはしないでしょう。

 しかるに、試合終了をまってコートの外に出、あるいは試合を放棄して退場し、足ばやに仏像破壊にむかった、ということであれば、これは究極的には私的な場における仏像破壊の問題ですから、今回の件とは性質を著しく異にします。
 いかにアスリートとはいえ、プライベートはどこまでも尊重されるべきです。

 つまり今は、試合開始前に予めコートに破壊するための仏像をもちこんでいる、乃至は、破壊に際して破壊用の仏像が搬入・設置される、という状況について論じなければなりません。この時点でなんらかの規約に抵触する可能性がきわめて高い。

 とびちる錦織選手のさわやかな汗に後光が差すようだとおもったら、仏像。立体物としての後光。金メッキ。
 ひとたび試合結果が錦織さんの機嫌をそこねれば、やにわに仏像破壊がはじまります。
 あの豪腕でもってふりおろされれば、ラケットなど早晩折れとびましょう。そこですかさず飛び蹴りがはいります。
 ヘッドロックがキマり、かわいた音とともに首があらぬ方向へ。仏の顔も30度。
 エクストリームスポーツのような大迫力。ストⅡのボーナスステージのような爽快感。
 あわれ仏様は、ぱっくりとわれてしまうこととあいなりましょう。これがほんとうの全仏オープンと、満場の観客も拍手喝采です。
 それはきっと、タイ式の仏像であるに相違ありません。その、タ、タイブレーク

 私は仏教徒の家にうまれ、その名に高僧からの一字をいただいています。
 仏罰のおそろしさは、だれよりもよくわかっているつもりです。すでに人生そのものが仏罰みたいなふんいきになっていることでもありますし、このへんにしておきます。南無大師遍照金剛。

 視点をかえましょう。
 錦織選手が「相手選手の」ラケットを破壊することがあるとすれば、どうなりましょう。
 これにかんしてもやはり、誹りはまぬがれえません。場合によっては逮捕・起訴にいたるでしょう。他人の財産を毀損することがご法度であることは、こどもでもしっています。
 仏像破壊についても、同様のことがいえます。
 賢明なる読者諸兄にはご無用の忠言かとおもわれますが、ねんのためにもうしそえますと、他人の仏像は絶対に破壊してはいけません。
 では、仏像はだれのものであったでしょうか。ここで当然にこのような論点が浮上するわけで、そしたらもうかえすのかえさないのおおさわぎ、はい、やめておきます。
 これだけは厳にいっておきますが、略奪した仏像にかんしては特に破壊してはいけません。よくわかりませんが、まちがいなくたいへんなことになります。

 すなわち錦織選手は、破壊すべきものを破壊したのです。私たちに何をせめることができましょうや。

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 ロックの世界には、みずからの楽器をあえて破壊する伝統があります。
 ピート・タウンゼントのギター破壊は、偶然の産物であったそうです。ヤードバーズ時代のジェフ・ベックがいせいよくギターを破壊する光景が映画にのこされていますが、これはフーの真似をしろとディレクターに強要されたものなのだとか。

 キース・エマーソンは高価でおもたいハモンドオルガンにナイフをブっさしたり、上にのってゆらしたり、たおして下敷きになったり(?)と、やりたい放題でした。
 しかし、それらの乱暴狼藉により発生する独特の音色・音程があったので、つまりそれは、一種の奏法であるともいえましょう。

 そうなのです。破壊は奏法なのです。
 あるいは、奏法の結果としての破壊。そのようなこともありえます。これはどのような奏法であれ、エントロピー増大の法則にもとづき常にわずかずつながら生じていることでもあります。ピックがへるとか。弦がしぬとか。
 私の場合、弦はきれる、ピックはわれる、ツメははがれる、親は泣く、女はでていく、バンドはつぶれる、というようなことをプレイヤーとしての持ち味としているのですが、これらは破壊を目的としているのではなく、なんか心のおもむくままに弾いていたらそういうかんじになったにほかならないのです。

 今日は初顔合わせのセッションがあり、今からドキドキしています。教ちゃんとのいつもの飲み会デュオセッションに、サックス奏者の春彦さんをむかえての実験的なジャム。即興です。
 おもえば、管楽器奏者の方とあわせるのは吹奏楽部以来になります。
 実のところ、彼の演奏もまったくきいたことがないのです。彼にしてみても私についてほぼ同様の状況だとおもいます。しかしながら間をとりもってくれた教ちゃんからきくところによると、ふりきれたアグレッシブさが彼の醍醐味であるとか。なれば私も相応の破壊行為、もとい、演奏で応じなければなりますまい。
 まあ、つまるところいつもどおりです。
 今日は何本の弦がちぎれ、何枚のピックが割れとぶでしょうか。カネがかかってしかたがない。

 オンボロギターをしょって、今日もスタジオにむかいます。ボディの傷は刀傷。勝ち戦でおった傷は武勲の証です。

 でもエフェクターに傷つくのは絶対やだ。