悪貨は田中を駆逐する

ギターボーカルのタナカサトです

田中炎上

 を、あまりすきではありません。

 まずは、ひけない、という点がきにいりません。

 わが国ではかなりおおくの人間が幼少期にを習得します。
 町という町にをおしえる人間がいます。10人も20人もいます。飽和状態です。
 こどもたちはさしたるビジョンもなく、やっておいたほうがいい、というようなふわっとした理由、あるいは同調圧力でもって、の教師のもとへかよわされます。不幸なことです。

 私の母は、小学校の教師であったため、をひくことができました。家には母のアピがありました。
 当然のように、母は私にをおしえようとしました。しかし、私は親のいうことを鵜呑みにするほどおろかなこどもではありませんでした。そこらのガキとはできがちがうのです。
 これほどにそれぞれの能力がちがう両手、あるいは五指におなじ能力をもとめる。人のおごり。環境破壊。進化の袋小路。
 その不条理にいちはやくきづいたおさない私はの練習から逃亡し、あるいはクレヨンでグリッサンドをするなどの破壊行為、あるいはねている母の顔面におもちゃのピをおとすなどの暴動をもおこし、断固としての練習を拒否しました。

 結果として、今の私は幼稚園児ほどもがひけません。これほどはらだたしいことがありましょうか。むしゃくしゃする。

 多感な時期に下手なをきかされることも、にたいしての悪感情の原因です。

 つまりは、初等教育で多用されます。
 音楽室にはグピがそなえられており、教師やら、クラスの達者な児童やらがとくいげにこのべらぼうな図体をしたグピをうちならすのですが、この音色のクソかしましいこと。愛想のないこと。グルーヴにとぼしいこと。
 色気も食い気もないあわせて、ジャリどもが声はりあげてうたいます。
 センスがないイモほど声だけはでかい。声だけはでかいことが、積極的な参加であると評価される。調子にのって音圧をたかめる。まさに地獄絵図です。
 山ハメにも皮イキにも、夢も希望ももちあわせません私は。神は死んだ。

 ハードウェアとしてのに目をうつしても、いろいろともうしあげたいことがあります。
 余韻のコントロール能力に乏しいという点が、まずもってのきのきかぬところです。融通のきかぬところです。民百姓を苦しめ、わずかな明日の糧さえもうばう悪逆非道の外道です。

 つまり、チェンバロやギターのように、颯爽と余韻をきることができません。
 どのようにみじかく打鍵しても、のん、のん、と、なさけなく余韻がのこってしまいます。これは300年間放置されてきた原理的な問題です。
 こんなものに日本の未来がたくせるでしょうか。21世紀をになうこどもたちの命をあずけられるでしょうか。

 だらしなく音をたれながしにする。そればかりは、のとくいとするところです。
 つまり、をふむとしまりがきかなくなり、をふみはずさないかぎり弦振動がつきるまで延々と音がのびていくということになります。
 この際、おしていないの弦も開放されますから、共鳴がおきます。
 これにかぎってはなににもかえがたい響きであり、尊いものです。というものはこのためだけにかろうじて存在をゆるされているのです。

 携帯ができないにもかかわらず、調整や調律に手間がかかりすぎる、というこのどうしようもない欠陥です。
 つまり、専門の調律師にたのまなければ、調律ができません。私が勝手にやったらめちゃくちゃおこられるだろうな。
 調律されていないまま放置されているというものも存在します。なんということでしょう。  プロニストの世界ですら、出先でわけのわからない状態のをひかされる、というようなことがふつうにあるのだそうです。じつにおそろしいことです。

 があるかぎり、私たちは成仏できません。苦の娑婆からのがれられないのです。

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 昨夜のセッションできまぐれにそこにあったをひいてみたら、なかなかおもしろかった。

 ならってみようかな。