悪貨は田中を駆逐する

ギターボーカルのタナカサトです

海辺の田中

 ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大なシシド・カフカに変っているのを発見した。
 私の毒虫がカフカにより巨大化するともうしますか。

 シシド・カフカとは、なんであったでしょうか。さんをつけろよデコ助野郎。

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 早苗さん……。

 シシドさんにかんしましては、これはもう端的にもうしまして、ドラムをたたきながらうたうモデルみたいなおねえさん、という印象でした。ひとつ死語でもってあらわしませば、これつまり小並感。
 その魅力については私としても、重々に承知しているつもりでした。

 なにも。なにもわかってなどいなかったのです。

 早苗さん……。

 最近では教ちゃんも早苗さん早苗さんとさわいでいます。無理からぬことです。
 もっともツイッターでトレンド入りしている早苗さんが僕のしっている早苗さんじゃない」というようなことをこぼしていたような気もします。
 しったことではないのです。
 ツイッターをみている時間があったらひよっ子みる。デレステやってる時間があったら澄子で高鳴るバイヤンする。それが国民の義務であり、9条の心なのです。平和の上にあぐらをかいてはいけません。かえせ北方四島
 みなさんも機会がありましたら、きょうちゃんにH-KVK シシド・カフカシグネチャースティックをおくりましょう。
 いつかかならず、私たちのまごころが教ちゃんのウラスジーミル・ポーチンにもつたわりましょう。ニジエ通信かよ。

 ところで私のマイスティックは、じつはすでにシシド・カフカシグネチャーなのですよ。うふふ。私の一匹の巨大な毒スティック。砂にかいた君のなまえ。
 ひとりH-KVKともうしますか。ぶってください。

 早苗さん……。

 みなさんにおかれましてはこんなきもちわるいものをよまされて、たいへんですね。難儀なことです。
 ざんねんながらかくほうはおもったより難儀ではないのです。
 かかない、あるいはかけない理由があるとすれば、ただもう多忙であるということがあげられるのでして、逆にもうしますと、こうして今シシド・カフカさんへの、早苗さんへの恋文をしたためられるということが奇跡のようです。この時間が、魔法のようです。

 恋とはどんなものかしら。
 私はいいました。恋は現し世にたいする己のあり方であると。
 高嶺の花に心をあずけるもよし。あの日あの時あの場所に魂をおいてくるもよし。
 しかし、理想を現実にもとめては断じてならないと。
 これはひとえに、おのがしあわせのためです。

 音楽は別なのです。別儀なのです。
 あれにかんしては、どこまでも夢をおってよいのです。いえ。おってしまうものなのです。
 どこかでその足をとめることができた人は、きっとそれなりの場所にたどりつけたのでしょう。そこにはしあわせがあったのだとおもいます。
 音をだしていると、己のことなどどうでもよくなってしまうのです。
 たとえわが身は地獄の底におちても、心とからだにどこまでもしたがう時間こそが、まさしく私にとっての音楽なのです。

 それはそれとして、いますぐにモテたいし、詞がかきあがらない。

 複数の課題があるようです。整理しましょう。
 いますぐにモテたい。ということにかんしましては、まずもってモテというものの定義について画然とさせねばなりません。
 つまり、ことによっては既にモテているのかもしれません。そうなればこの問題は解決済みということになります。
 しかるに、モテの定義、あるいは、再定義、ともうしますは、一日の分量以上の紙面をついやす、由々しき議論になろうかとかんじられます。
 これにかんしてはいさぎよく、後日にまわすといたしましょう。
   では、詞がかきあがらなかったのはなぜであったでしょうか。
 メロを毎回コロコロかえ、コロコロかえるというかもう、かんがえてきたネタを都度都度失念してアドリブでうたい、一念発起したかとおもえばサビのサイズごとかえてしまう、などの所業をくりかえしたからでしょうか。
 私は、そうではないとおもいます。
 そういった低俗な、作業効率に帰結できる話ではなかったようにおもわれます。
 なぜならば、そういった工程上の問題をかかえながらも、今の私には自在に詞をつづれるからです。

 恋がそのまま歌になる。